カガクシャ絵日記

SURVIVAL AIN'T MY LIFESTYLE. (死なないように生きてます)

日本人と英語9:留学と英語(後編、留学と英語力)

春学期が終わって自分の人生の方向を勝手に決めた。大学院に行って生物化学をおさめるんだって。そのためにはこの留学の成績が鍵になると思った。そして計画的に成績の平均が上がるような履修の仕方をした。大学院進学の推薦文を書いてもらえるような先生も見つけなきゃならなかった(誰に書いてもらったか忘れたけど)。

夏学期は元から決まってた通りキャンパスを離れてホームステイに行った。これは3ヶ月あったので3件ぐらいの家にたらい回しされたと思う。

一軒面白いとこに行った。そこはバプティストというキリスト教のうちでフォスターファミリーをやってた。フォスターファミリーは法律で親元から離された子供を預かって育ててやる制度で、僕もなんとなくその一人みたいになった。そのうちで牛の搾乳を手伝ったり子供達と川に行って一日中泳いだりした。その時フォスターキッズは7歳と5歳の兄弟が居た。お兄さんと妹で2人とも母親に虐待を受けてるらしい。それでもおかあさんが会いに来るとそれがこの世で一番嬉しいみたいにはしゃいでた。5歳の妹は体の成長がおかしくって体が2歳ぐらいの大きさしかない。医者に行っても原因がわからないらしい。大学だけじゃ見れないアメリカを夏の間にたくさん見聞、経験した。

 

さて夏も終わってキャンパスに帰ってくるとやっぱりある程度英語が楽になってたと思う。留学にも辞書は持ってきたけどロングマンの英英でほとんど使わなかった。途中でペーパーバックの英英を買ったと思う。でも以前とおなじで辞書はほとんど引かなかった。

有機化学は教室があんまりにも遠いので途中から行かなくなって一人で教科書をやって勉強した。それでも結果は優に当たる4をもらった。専門教科の大学レベルの教科書は一人で読んで勉強できる程度にはなっていた。

生物化学の講義は相変わらずテープを聴いてた。宿題が出た時に教授がアジアから来た学生は教科書丸写しの答えを書いて出すけどそれは違反ですよと言っていたのを覚えてる。理解したことを英語にするのはだんだんでき始めてきたと思う。友達にお手紙程度のことは何となく書けたと思う。

果たしてヒアリングが一番難しいというけど確かにそうだと思う。1年の留学で会話に関しては不自由はなくなるけど知らない事は聞くのは難しい。

冬になって、留学10ヶ月ぐらい経って映画を見に行った。キャンパスで映画をやってた。トムクルーズがカクテルをぐるぐる回す映画で大した内容じゃなかったけどびっくりするほどわからなかったので仰天したのを覚えてる。悔しくて2回見に行ったような記憶がある。

日本でいうペラペラっていうのはなにを言ってるかはともかくしゃべった時に日本人離れしてるように見えることを言うけど、そう意味ではペラペラにはならなかった。わりと無理なく相手の言ってることを理解して答えることはできる程度だったと思う。寮のルームメイトとは部屋で話はしたけどみんなでどっかに行ったりすると特別に質問をされるまでは話に加われない感じだった。

だいたい1年留学して英語はそれぐらいだったと思う。

英語なんかに比べれば何十倍も留学中に勉強した内容の方が大きかった。大学に帰ってちょっと良くしてくれてた教授に勉強してきたノートやレポートを見せて研究室を変えてくれと頼んだ。そして教授会にかけてもらって変えてくれることになった、今までに例のないことだとかもったいぶったことを言われた。生物化学の研究室で1年やって卒業した。研究は確かステロイド系のホルモンが遺伝子制御に関係するという研究に使うDNAの組み替えをやったと思う。卒論はレポート形式だったけど一応英語で書いた。

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日本人と英語8:留学と英語(前編)

学校からお金をもらって一年間行った留学の目的は2つあった。まあもちろんアメリカの大学に行ってみたいということと、もう一つはそこで生物化学をある程度勉強したかった。

僕が行ってた大学は3年生なると研究室に入れられ授業の合間にそこに行って研究みたいなことを見る、それで4年になると授業はなくって朝から晩まで研究室で卒論研究をするカリキュラムになっていた。僕は3年になった時にちょっと弱気で書いた第二次希望の研究室に決まった。これは分析無機化学みたいなところで興味のあった生物化学とまるっきり違っていた。だから3年の時は馴染めないのとふてくされてたのでほとんど研究室に行かなかった。

それで思った。留学して生物化学を勉強して帰ってきたら研究室を変えてもらおうと。誰もそうしてくれるとは言わなかったけど昔からの癖でかってにそう思い込んで留学に出かけた。

留学先の大学は今はもうあんまり見かけない一年に4学期ある制度で3月の終わりから春学期だったから日本の新年度とちょっとあってた。もちろんアメリカの学校は秋から始まるので通年のコースなどは最終学期になっていた。僕たちは特別4年生という変わった待遇になっていたので割合に途中からでもクラスを取ることができた。

大学に着いてまずはオリエンテーションがあってその中に留学生用の英語のテストがあった。僕は理系の学部生のカテゴリーで英語のテストはパスした。これに引っかかると学内にある英語学校に行かなければならないので時間が無駄になる。

1年間で履修したのは4年生と大学院生に配当されている生物科学ⅠとⅢ、それから生物化学実験ⅠとⅡ。生物化学Ⅱはインフルエンザになってしまい残念ながら履修を2週目で諦めた。有機化学の講義は一年で3クラスあるうちのⅠとⅡを取った。有機化学は実験もひとつとった。有機化学は2つコースがあってどちらも1年3クラスで一通りやるんだけど化学専攻者用と専攻者じゃない人向けがあって僕はズルして楽な方を取った。というのは化学専攻者用のコースはかなり難しいと聞いてたから。体育はラケットボールと空手を取った。大学の成績は4が一番よくって0.5ずつ区切ってある。頑張ったおかげで留学中の成績はいくつだったかは覚えてないけど平均で3.5に満たなかったものの3よりは上だった。

さて英語の話。何はともかく春の生物化学Ⅲの講義はすごかった。講義のは朝8時に始まるし週に4回位あった。それでクラスの半分ぐらいが理科系の大学院生だった。講義は全然わからなかった。ノートは全然取れないし、教科書を読む課題だって到底読めるページ数じゃなかった。なんだかわからにうちに三週間もするともう中間試験があった。もちろん毎回授業の前にクイズなるものがあったりしてあっという間に何をやっていいのかわからない状態になった。中間試験は4段階で2の成績だった。2.5が平均だから焦った。

今からだいぶ昔の話だからそう思って読んで貰えばいい。授業は学校の方で録音してあり図書館に行くとそのカセットテープを借りてカセットデッキが20ぐらい置いてある部屋に行って聞くことができた。ノートが取れないから最初から行けばいいんだけどやっぱりそんなことするのがおっかない。それでも試験の結果を見てからはおっかないなんて言ってられなくなった。意を決して実験のない午後や週末はほとんどそこに行ってテープを何回も巻き戻してはノートを取っていた。

 

50分の授業で普通の学生ならが講義を聞いて理解しながらノートをとる。わからないところは手を上げて質問したりする。僕はただそこにいるだけ。講義はハンドアウトというものがあって多少大事なことや図が書いてある。でも授業中にそこに書き込むのはほとんどできなかった。

そこで図書館に行ってテープを借りて聞く。50分の授業を聞くのに3時間かかった。それをまた1時間ぐらいかかって見直して意味のあるものにする。普通の学生が50分でできることが5時間かかった。年がら年中勉強してた。しょっちゅう昼飯食う時間がなくってアイスクリームで昼めしの代わりなんてしょっちゅうあった。

寮のルームメイトのお母さんからあんたみたいに一生懸命いつも勉強するのがうちの子のルームメイトで良い影響になると喜ばれたほどだった。

実験の方もすごかった。こっちの講義はちょっと楽だった。足を机の上に上げて講義を聴くことを習った。実験パートナーがいて真面目な学生だった。分厚いメガネをかけたひょろひょろした黒人の女の子で勉強がすごくできた。遠心機を待ってる時に鼻歌歌いながら指を鳴らしてリズムをとって楽しそうに体を振ってるのを見てアメリカだなーと思った。宿題なんかも一緒にやったっけどわからないところを一緒に考えたり教えあったりした。日本の大学じゃできるやつはできない振りしてできないやつはやたらおだててなんか聞き出そうとするそんな感じとは大違いだった。

実験そのものはそれなりにできた。でも実験レポートがあった。しかも使ったこともないコンピューターを使ってタイプして出さなきゃいけなかった。これはしんどかった。実はスペルチェックの機能があるなんてことも知らなかったからミススペルのものすごいレポートを出した。その時に教授が鉛筆で全部スペルを直してくれて書いた内容だけで評価してくれた。日本の学校は手書きのレポートで内容なんか全然見てないで「字が汚い」とか言う評価がついてた。レポートの視点はちゃんとしてたのにて丁寧にトンチンカンなこと書いた友達の方が評価されていた。だからとても嬉しかった。こんな学校で勉強がしたい、大学院に行きたいと本気で思った。

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日本人と英語7: 短大、編入学して留学を目指してた頃。

短大に入ってからは津田には行かなくなって片道1時間半かかる通学に一生懸命本やタイムとかを読んでいた。電車に乗ってる間は往復2時間ぐらいだった。駅から歩いてる時はカセットテープに録音した映画の音を聞いていた。

その他イスラエル人の知り合いが何人かできてそういう人たちとつるんでる時間が増えた。当時はイスラエル人が東京に多かった。

実は短大に行った理由に一つ夢があった。

短大は4年生の学部や大学院で博士課程もあるちゃんとした大学システムに入って、そこの学部学生が毎年3人選ばれて150万円奨学金をもらって1年間交換留学に行けるということが学校紹介に書いてあった。

短大に入った僕は短大を卒業して学部編入して留学したいという遥か彼方みたいな夢があった。

 

短大の2年生の時に野菜を作るコースに入った。その時に農場でキュウリを作ったんだが僕の班のキュウリは梅雨の間に腐って溶けてしまった。それから前期はやることがなくなってしまって農場の端っこでタバコを吸ったりしてた。

 

こりゃダメだなと思った。このままいってもダメだ。

科学者になろう!って。

 

それでいきなり科学者を目指した。

編入して科学者になるために一番科学者になれそうな学科の編入試験を受けることにした。試験科目は有機化学100点、無機化学100点と英語200点という振り分けだった。英語が全部で50%なら入れるかもしれないと思った。それで1年間化学の勉強をした。本屋で本を買ってきて勉強した。

実は、僕は高校で全然化学をやってなかった。こたつで朝まで勉強した。でも勉強するというのはどんなことか知らなかったからいくらやっても全然わからなかった。

試験を受けるとなんと受験者は僕だけだった。試験を受けたら有機化学は半分ぐらい行ったかもしれないけど無機化学は半分以下の点しか取れなかったと思う。でも英語はできた。多分100点かそれに近い点だったと思う。

二週間後に面接試験があった。化学が全然ダメだったから絶望してた。学科の教授が5人ぐらい向こうに座ってこっちは一人きりで試験の問題をまた見せられた。「これはどうやってやりますか?」と言われて「わかりません。」と答えた。すると、「君はできなかった問題をうちに帰ってどうやるんだろうと勉強しなかったのか?」とか言われて「はー、あんまりにもできなかったんで諦めてました。」とか言ったと思う。それで「君はもし学科に入って将来何をしたいですか?」と聞かれて「はい、学者になりたいです。」と答えた。全然試験ができなかったのによく言うわと自分でも思った。

あんまりにも絶望してたんでこれからどうなっちゃうんだろうとか考えてもいなかったら、結果的に編入試験に通った。でも短大のコースがあんまりにも科学者とは遠いんで3年次でなく2年次編入だった。嬉しかった。そして思った。留学選考まであと2年間時間がある。

2年生は化学系の講義と実験が朝から夜中までほとんど毎日あった。基礎がないからかなりしんどかったけど3年に進級できることになった。

それで春休みに成田から生まれて初めて飛行機に乗った。イスラエルキブツという共同生活をしているコミュニティーに住み込んで農場で仕事をしながら色々考えようと思っていた。

イスラエルに行って来まーす。」と言って朝の5時頃家を出たものの飛行機の切符はロンドンまでしか持っていなかった。まるっきり無鉄砲というか知らぬが仏みたいな旅だった。それでも死なずにイスラエルまで行って帰ってきた。

自分の判断と自分の英語力だけが頼みの旅だった。英語が上手にできるようになったとは思わなかったけど違う文化と、はるか遠くの地にも人間がすんでるという実感を持って帰ってきた。

3年生の夏に留学の選考試験があった。試験はミシガンテストという英語能力テストと作文と面接だった。テストの後、僕は住み込みで1ヶ月間北海道に麦刈りの仕事に行った。

結果の発表は秋だった。夢にまで見た3人の留学生の一人に選ばれた。

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日本人と英語6:勉強しないでも英語ができるようになる方法に異様に執着してた時期

高校を卒業した後もあんまりにも勉強ができないので浪人みたいななんだかわけのわからないことをして3年ぐらいしてから短期大学に入った。

でもその間に異様に英語に時間を使っていた。どうしてかというと英語ができるようになりたかったけど勉強はしたくなかった。勉強をしないためにはありとあらゆる努力する性格なので英語もそのアプローチだった。

これは僕は自信を持って威張れることなんだけど英語の勉強は例の300の構文だけでそれ以来したことがない。でもなんとなく普通よりできるようになったのはいわゆる勉強をしなかったからだと思う。

英語は勉強をしない方が身につく。なんとなくそう思ってた。だってアメリカの赤ちゃんは参考書も教科書もないで英語を話すじゃないかって。それから見るもの聞くもの全部英語にしてわかんないことは別にそのまんまにしておこうという態度をとった。

まず本をたくさん英語で読むことにした。"Love Story"という70年代の映画の元の小説を見つけた。これは100ページぐらいで内容はTVで何回か映画を見てたから知ってた。ぺらぺらページをめくっても字が離れてるしページもぼそぼその独特のボロい紙でめくり甲斐があった。この本を辞書を使ってわからない単語だけ引いて読んだ。1ヶ月か3ヶ月ぐらいかかったか、わからないところは映画の記憶で取り付くってなんだか読み終わった。辞書も途中から中学用の辞書にしてそこに載ってない単語はわからなくってもいいという非常に低い基準で攻めた。

読み終わって結構わかったんで自分でもびっくりした。これがいいと思った。2、3冊こんな感じで読んすぐ辞書がなくても読めるようになった。それはどうしてかというと単語の和訳がわかるんじゃなくって勘が効くようになる。このころから「英語は勘」というわけのわからないやり方を追求し始めた。

僕が18の頃に池袋の西武デパートにニューヨーク展なるものがあった。そこで古本のペーパーバックスがたくさんディスプレイに使われてた。それが終わってからその古本のペーパーバックスが一冊100円で売られてた。ここぞばっかりに訳も分からず五十冊ぐらい買い込んだ。これを全部読んだというよりページをめくった。わかった本もあったし読み終わってなんだか全然わからないものも半分ぐらいあったと思う。でも英語の勘はかなり冴えた。20才の頃はジョンアービングというアメリカの作家にはまってたこともあった。2、3年間で百冊以上は「読んだ」と思う。

聞くのもFEN Tokyoをいつも聞いてた。夜は寝るときにラジオを付けっ放しで寝てた。

あの頃にTVの2ヶ国語放送というのが始まった。アメリカのドラマとかが英語で観れる。もちろん家にTVは1台だから英語で観たいと言っても「あんたそんなの見てもわからないんだから日本語にしなさい。」とか言われて、「いいじゃねーかよ。」なんてなってた。

二ヶ国語の前はセサミストリートを見た。NHKで毎週日曜に朝一回と同じのをまた夜一回放映してた。それを録音して(録画じゃないよ)朝夕二回見てその録音を一週間聞いて前の日曜に見たシーンを思い出したり。iPhoneでユーチューブがどこでも観れる時代の人たちには信じられないだろうけどね。

まあそんなことをやってた。タイムやニューズウィークも購読して何年も一つも読まないで押し入れの中に山のようになってた。でもしだいに読むようになったけど。レバノン戦争やエイズが初めて話題になった時のタイムを読んだのを覚えてる。

書くことは一番難しいけど日記を英語で書いた。今でも当時書いたものがあるけど読んでも意味がわかる。

何としても一つ決めてたのはわかんなきゃそれでいい、辞書なんか人前で絶対引かない、勉強と思うことは絶対しないっていう気持ちで英語に向かってた。というか性格的にそうしないとやっていけないというのは自分が一番知ってたから。

 

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日本人と英語5:津田英会話学校で進級試験に落ちて初めて英語を勉強した。

高2の秋10月に初めて英会話を習い始めた。よく覚えてないけど、基礎クラス、初級クラス、中級クラスと上級クラスがあった。基礎以外はその中でも2、3段階にわかれていて試験に受からないと次のクラスに行けないようになっていた。

もちろん試験なんて恐ろしいから試験のない基礎クラスに入れてもらった。

なんか先生が英語を話してる。ほとんど何言ってるかわからない。教科書もあって全部英語で書いてある。しばらくいってるうちにこれは発音記号を習うクラスだということに気がついた。

津田は授業が基本的にみんな英語だった。ほとんどが帰国子女みたいな先生だったけど中には白人の先生もいた。ともかくやっぱり何だかわからなかった。

クラスの他の生徒はサラリーマンと大学生が半々ぐらいだった。それも早稲田の人が多かったような気がする。僕は最年少だった。

どうして全然わからない英会話学校にちゃんと言ってたかというと授業の後にみんなが飲みに行くのに一緒に連れて行ってもらえることが嬉しかった。まだ高校生だったからなんとなく大人の仲間入りで新宿とかその辺に行って嬉しかった。

基礎からは次の初級のクラスには試験がなかったから進級した。2、3回進級するとずっと同じクラスだった人たちが本当に仲良くしてくれて結局英会話学校に友達に会うのが楽しくって通ってた。

自分だって高校の授業はできないけれども中2までの英語はそれなりに自信があったからそれだけでもなんとか英会話のクラスは途中までやっていけた。ところがやっぱり限界が来て初級の上のクラスか中級の下のクラスか忘れたけど進級試験で落第した。

同じクラスをもう一度やらなきゃならなくなった。友達は進級したけど落第したから新しい友達もできた。

その頃自分でもこれはいかんと思って英語を勉強しようと思った。英会話学校は英語の会話になれるにはいいけど英語の勉強にはならないなっと薄々感じてたからなんとか自分でやるしかないと思った。たぶん高校1年の時にかわされたのだと思う英語の参考書みたいなのが2冊あった。そのうちの一冊は英語の構文集みたいなものだった。500ぐらいの構文が書いてあってそれを覚えたらいいと高校の先生が言った。

これは昔に中学校の教科書をほとんど丸暗記したようなことに似ていたからすんなりやり始めた。今度は単語カードを使って一つ一つ日本文を見て英語の文に書き換える練習をした。前にも書いたけど頭を使って考えることはできないけど物を丸覚えすることは人並みにできたし、そういう単純作業みたいな勉強法が結構性に合ってた。

半年ぐらいで多分300ぐらいは覚えたと思う。そのあとはなんだか構文が難しそうでよく理解できないからそれぐらいでやめた。今でも覚えていて意味がわからないから仕方なくって日本語訳もそのまんま丸暗記した文がある。

"I cut myself while I was shaving."の日本語訳が「剃ってる間に切っちゃってね。」というのだった。この日本語の意味が何十年もわからなかった。当時は床屋のオヤジに散髪と髭剃りを一緒にやってくれと言ってるんだと思ってた。でもなんだかおかしい。だいぶ後のなってから英語の意味がわかって、ああ自分でヒゲを剃っている時に間違いて切っちゃったんだなーってのに気がついた。ある意味英語がわかったから日本語の意味がわかったみたいな変な文もある。

そんなことはともかく、これをやったおかげで自分の言いたいことはなんとか英語にすることができるようになった。

それで進級試験も受かってその後一度も落ちないで進級した。クラスが進むとクラスメイトもなんだか勉強ができそうな人ばっかりになってきた。でもどっか飲みに行こうというと真っ先について行ったりしてた。

ここで300ぐらい英語の構文を覚える努力をしたと書いたけど、実は僕はこれが最初で最後の英語の勉強だった。津田はいってたけど英語に触れるチャンスと遊びに連れて行ってもらえるからだった。はっきり言って津田には申し訳ないが何を勉強したという記憶はあんまりない。やっぱり英会話学校は自分の殻から抜け出して英語を話す練習をするところだと思う。だから英会話学校で英語学校じゃないと思う。

結局300そこそこの構文のおかげで基礎から入ったにもかかわらず落第は一回きりで上級の一番上まで2年ぐらいで進級した。卒業はなかったので上級クラスに2年ぐらい通って週一回英語が話せる環境を保った。

津田に3年通ったからペラペラになったのだろうか?その頃は実はアマチュア無線の熱もだいぶ下がってだんだん英語に引きずり込まれて行っていた。

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Saturday & Sunday:何年かぶりでサルサを踊りに行った。

今週末はうちの村ではミュージックフェスティバルがあった。それと関係あるかないか知らないけどサルサバンドが来るっていうんで行った。場所はライブができるバー/レストランみたいなところ。

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3階席みたいなのもある。下に行くのが面倒臭い人のためにちっこいバーもある。

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足がまだ本調子じゃないし最近肩も痛くて腕が上がらないから最初は上から見てた。

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まあでもやっぱりみんな踊ってるのを見るとビッコでもいいから踊ってやれってな気分で下に降りて行った。

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一人で来たからその辺の女の子に頼んで踊ってもらった。

 

そうしたら足はなんとかできそうだったんだけど息が上がっちゃって一曲踊り通せない。だから途中でやめちゃったりして。それから乗ってくるとクロスバディーリードの時に左肘を上げる癖があるんだけど。癖だから意識しないでやってると肩が痛くって、「いて、いて」ってなった。なんかしょうがない状態だったけど、いい気になって10曲ぐらいは踊ったと思う。

帰り際に女の人が寄ってきて、「あんたクリスの研究室で働いてるでしょう。」なんていうから誰かと思ったら2、3回あったことのある学科の人。「こないだ見た時は杖ついてたのに頑張るね。」なんて言われてしまった。

 

ここでよく知らないローカルなラテンバーに(一人で)行ったときのマナーを教えてあげよう。

 

ラテンバーには大きく分けて2種類の人たちが来る。

一つはラテンダンスを習ってそれを楽しく踊りたいのでくる人たちで全然ラテンっぽくない。

もう一つはラテンの人たち。彼らはニューヨークにある居酒屋に日本人が行くみたいな感じできてる。彼らは踊るときもサルサ教室で教えてるような技にたよる踊り方はしない。そのくせ動きが全部リズムにあってて近寄りがたいラテンのオーラを出す。

 

もしサルサを踊るために行ったことのないバーに一人で行ったらこの二つのグループをまず見分ける。それでラテン系じゃないサルサ教室グループとつるむ。

やり方は、まず2、3曲観察してると誰がだいたいどれぐらい踊れるとかわかる。その時に誰とでも気楽に踊ってる女の子を見つける。それでまずはそういう人にお願いすればだいたい踊ってくれる。

女の子とお話しばっかりしたいと考えてるのは素人。

まず男の知り合いをできるだけ作る。だんだん知り合いを増やす。女の子の方はサルサを踊りに来てるのにやたらとデートの相手を探してるような振りを見せると嫌がられるし、女の子同士で結構話してるから変な噂が立つ可能性がある。だからまず男の知り合いを作っておく方が後々踊ってくれる女子も増える。

相当踊れても怪我をしたくなかったらラティーノのグループの女の子にはお願いしないのが賢明。絶対女の子同士で来てるなってのも知り合いになるまでは用心したほうがいい。

 

もう3年以上前にアトランタで踊ってた以来こういう機会がなかった。家に帰ってきたのはシャワーしたのは朝の2時頃だっだけど嬉しくってなかなか寝付けなかった。やっぱりサルサに戻りたいな。

 

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日本人と英語4:英語ができないとアマチュア無線ができないと本気で錯覚したこと。

さて前にも書いたけどふにゃふにゃした子供だったからなんだか自分が特殊だということを証明したい気持ちがあったんだと思う。小学校の頃から自分の部屋でなんか機械をごちゃごちゃやっていろんな人と話せたりとかそのためには国家試験に受かって免許がなければいけないアマチュア無線に憧れた。

実際親に頼んで小学校5年生ぐらいの時に通信教育の教材を買ってもらった。無線機をいじってる人の写真とかあって楽しそうに見ていたけど、教材は読んでも全然わからなかった。

最初に出てきたオームの法則の式のいきなり意味がわからなかった。親もわからなかったし年上の従兄もわからなかった。アマチュア無線どころの話ではなかった。まるっきりそういう環境に住んでいなかった。

 

それが高校一年が終わる頃母親がどっかで講習会に行けば免許が貰えるということを聞いてきた。それで資料を郵便で取り寄せて巣鴨の無線連盟のビルに春休み2週間ぐらい通った。講習は無線法規と無線工学だった。両方ともちょっと覚えればいいような試験が最後にあって念願の電話級の免許をもらった。

 

後で英語の勉強のキッカケになったのはこの講習会だった。昼休みに無線法規の先生がどうして無線のプロの通信士になったかという話をみんなにしてくれた。ちょっと長いけど面白いから書こう。

 

その先生は実は太平洋戦争の時は16歳かなんかで少年兵だった。それであの有名な戦艦武蔵の通信兵だった。送られてきたモールス信号を紙に書いたり、言われたことを送信したり。ところが武蔵は沈没した。やっと生き残って帰ってきて戦後に仕事をするんでプロの通信士の試験を受けた。もちろん通信の方は抜群だったけど英語の試験があったのに度肝を抜かれたらしい。先生は英語なんて勉強したことがなかったらしい。そこで神田の英語学校に3年通ったら英語ができるようになって見事通信士の試験に受かった。

 

当時は何にも知らない僕でも神田の英語学校と津田英語学校というのは英会話学校として東京では有名なことを知っていたからへーっと思って話を聞いた。あの時は武蔵の話の方がびっくりしてこんなすごい人がいるのかと思った。

 

まあ英語の話だから英語のことに集中するけど、アマチュア無線の機械はお小遣いを全部使って短波帯が使える機械を買った。2週間後の台風で倒れてしまって一度も送信に使わなかった大きなアンテナも設置した。

 

全部つないで初めてトランシーバーのスイッチを入れて21MHz帯を聞いてみた。

 

そこでびっくり!本当にびっくりした。

 

そこでは日本人がみんな英語でしゃべってる!

 

まあすぐ、日本語も聞こえてきたけど最初に聞こえたのが英語だったのがインパクトが強すぎた。

当時は自分の周りに英語を話す日本人なんか知り合いにいないしTVで時々海外からの芸能人の日本人通訳みたいな人がマイクの陰でゴソゴソと英語で話してるのしか見たことがなかった。

なんでもまに受ける性格だったので悩んだ。アマチュア無線をやるには英語ができなきゃいけないんだ。かなりそう思った、本気でおもった。だってみんなペラペラじゃないかって。

これは実は大問題だった。だって学校の英語が全然わからない状態だったから。確かに中2までの英語はそれなりに自信がったけどペラペラしゃべってる人は学校の英語なんかお茶の子さいさいなんだろうと思った。

この時点でいきなり頭の中ですでに英語ができるまではアマチュア無線はお預けだ、英語がペラペラじゃなきゃアマチュア無線をやる資格はないんだと勝手に思いこみ始めた。実はこういう風に思い込むくせは昔から強すぎて今でもちょっと普通の生活してても思い込みが強すぎて損ばっかりしてる。

これが起きたのが高校2年生の10月だったと思う。

その時すぐに思い出したのがあの先生が言った言葉だった。「神田の英語学校に3年通ったら英語がペラペラになった。」

それですぐ親に頼んだ、神田の英語学校に行きたい。3年通えばペラペラになれるそうだ。親もまあ行きたきゃ行ってみればということでお金を出してくれると言った。

それで神田に電話したらもう秋の学期が始まってるから今からは入れませんと言われた。かなりショックだった。でも津田があるから津田にも電話してみた。

津田の方は秋学期は始まってるけど2週目だからまだいいですと言われて千駄ヶ谷にある津田英語学校に週3回2時間ずつ夜英会話を勉強しに行くことになった。

 

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