日本人と英語10:大学院生の頃の英語の苦労
日本の大学を卒業して間もなく配偶者ビザでアメリカに移り住んだ。英語力は前にも書いたとおりうわべだけはなんとかアメリカで生きていくぐらいんにはなってた。
大学院でやっていくには足りなかったと思う。
GREの受験塾みたいなのに行ったりした。TOFFLEはうけたけど勉強は全然しなかった。理系の大学院に入るぐらいはとれた。
何って大学院ほど勉強したことはなかった。入って二学期目は授業は2科目で週に3回と4回だったと思う。どっちも教科書がなくっていわゆる科学論文が参考文献。授業はそれに出てくる大事な理論みたいなことをやる。一回で2、3報の論文を読まないといけないそれが全部で週に7回クラスがあるわけだから楽に15報ぐらいこなさないといけない。それで二週間に一度ずつテストがあった。しかも時間が無駄だからとかで授業中にやらないで月曜の夜の8時から10時とかになってた。二科目だったからしまいには毎週月曜の夜はテストだった。
当時はっきり言って論文は読めなかった。気が付いたら同じ行を10分ぐらい繰り返して目で追ってるだけっていうこともあった。到底こなせぬ授業内容と到底こなせぬ授業の量で、その学期は結局2つとも落第点になった。到底歯が立たないと思った。3回目ぐらいの試験の結果どうやってもパスしないとわかった時はうちに帰って声を上げてオイオイ泣いた。悔しくて悲しくてどうしようもなかった。いくらやっても他の学生はアレヨアレヨと先に行くのにこっちは爪の間から血を流して岩を登ってるような気持ちがした。あれには参った。
結局次の年もまた履修した。今度はなんとかパスしたし授業もわかった。結構身についた。論文もだんだん読めるようになってきてた。大学院の終わりころから自分の専門じゃなくても大体どんな論文でも読んで分かるようになりだした。
一番大切だったのは「読んで理解する。」ということがどういうことかやっとわかった。それを知らなかった。普通なら小学校でここにたどりつくんだろうが僕は30過ぎてた。
それから「ただ暗記」だけの勉強法から「理解すること」に重点を置くようになった。
論文とかはパラグラフごとに読むようにした。わざと自分でここのパラグラフには何が書いてあるか問いただして自分の言葉でそれが説明できるか練習したりもした。これは小学校の国語の時間に全然できなかったことだし、その頃そういうことができてた友達はそれは勉強が楽だっただろうなと思った。
それから今まで全然細かいことを気にしないで英語を読んできたことのしっぺがえしが来たなと思った。わからないところは細かく読むこともするようにした。
論文や卒論も書いたけど教授とやりとりしている間に自分が書いた言葉が全然残ってないような論文になった。正直言って卒業した時の英語力は同じレベルの学位で卒業した人たちとは比べ物にならないぐらい低かった。
なんとか続けられたのは実験だけは人並みにできたからだと思う。
話すのは人前で自分の研究発表したりとかはできるようになってきた。
学科で他校の教授を招いて週一回ぐらいなんか講演があった。これはわかるものとわからないものがあった。一番大変だったのは居眠りしないようにすることでどうしても座って20分経つと居眠りしてた。これは今でもそうで最近は無駄な抵抗はしないで一寝入りしてからまた起きて頭をすっきりさせて途中から復活したりしてる。
それでヒアリングのことだけど移住してから3年ぐらいしてお勝手で皿洗いしてる時にテレビのニュースが流れてくるのが聞こえてわかった記憶がある。その辺からテレビも分かり始めてきた。
大学院も長くいたら居心地が良くなってのんびりしてたら追い出されてしまう形になった。ちゃんと卒業したけど、入ったのも出たのも運が良かったって言うしかない。