カガクシャ絵日記

大学の研究室で働くってこんな感じ?

日本人と英語13:英語との付き合いでラッキーだったこと。

英語と初期に結構うまくやっていけたのは自分の性格をよく考えてそれで英語と付き合っていたからだと思う。

そのうちで一番大切だったことは自分は勉強ができないということを早いうちから自覚していた。「強いて勉める」ことが大嫌いで出来ないし絶対長続きしない。

その代わりに自分の中に燃えるものがあるときはそれだけに集中していればある程度はできる。その他あと5分しかないぞーとかになると火事場の馬鹿力で頑張る。

自分のものにしようとしたらなんでも長期戦だ。急に燃えてもすぐ燃え尽きるし「あと5分」じゃなんともならない。

だからなんとか心の底に燃えるものを持ち続けられる環境に自分を置くようにしてた、というか結果的にそうなってた。

例えば津田では授業の後に遊びに連れて行ってくれるから頑張って通ってたとか。英語の本を電車で読むとかっこよく見えるだろうなという妄想で自己満足したり。そういう全然英語と関係ないところでボソボソ燃えてたわけ。

だからいつも英語は二の次三の次。わざとそうしてた。前にも書いたけどわかんないことはそのまんまか分かったふりで誤魔化してた。辞書は持ってたけどほとんど引かなかった。いつかわかるようになるだろうと本気で信じてた。

 

それから自分で勝手に決め込んだ「本物」を追いかけた。

日本語で説明してある英語の教科書は本物じゃないとか勝手に決め込んだ。「こういう時にはこういう風に言うんだ。」という考え方も偽物と思った。どうしてかというとそのパターンにはまることは実際に絶対と言っていいほどありえない。そんな時に決まった答え方っていうのは絶対に場に合わないと勝手に決めてかかってた。

英語とは違うけど子供の時はファッションにも興味があった。アメリカのTVドラマを沢山見てたけど主人公の服の着方は主人公だからモデルさんみたいに誰かが考えて着せられてるんだろうなと思った。これは偽物だと勝手に決め込んだ。それでエキストラの人たちの服の着方が本物だと思ってそれを一生懸命見て真似したりしてた。

英語に興味があったけど英語のために英語をやるのは本当じゃないと思ってた。英語は言葉だからそれを使って何かするのが英語の存在する本当の目的だと思ってた。アメリカに行ってみたかったけど当時流行ってた「短期語学留学」は偽物っぽく感じた。アメリカに行くんなら正規の大学に通って英語を使って正規の授業でちゃんと単位を取るのが本物と思ってた。

そのくせなんでも「適当」でやってた。

僕は時々絵を描くんだけどペン画とか絶対にできない。いつも油絵で適当に色を置いていってその上からまた何回も塗り替えたり例えば描いてる木の位置を後からずらしたりとかそういうことしかできない。線を一回描いてそれが一発で決まるっていうのは性格に合わない。なんとなく感じたことを積み上げていく、途中で修正する。それで自分の気持ちのこもったものを作り上げる。

英語だって最後に自分の言いたいことがちゃんと伝わればそれでいい。何かいいだしてそれをだんだん形にしていく。自分で話しながら考えてる。言いたいことは最初に思っても口から出る言葉は喋りながら作り出す。聞くのも聞こえた後に頭の中に相手の言いたいこと、TVやラジオで言ってることの意味が残ればいい。そういうことが大切だと勝手に決めてた。

アメリカに住んでからはラッキーだったと思えたことは何もない。毎日が戦場で英語は死なないための道具の一つとなった。荒稽古と貧乏で鍛えられた、反則技もなんのその。でもそれがある意味ラッキーだったのかもしれない。

結局一番ラッキーだったのは「勉強」が嫌いだったことかもしれない。そのおかげで分かることだけ気にしてわからないことは無視しておくことができてた。それはちょうど出来たからあめだまもらって喜ぶのとできないから横っ面ひっぱたかれて泣きべそするのと同じで、あめだまの方が誰でも嬉しいしやる気が出る。反対に毎日横っ面ひっぱたかれてたら誰だって嫌になるしな。

これで2から12までの要約にします。

この後この延長で、スカイプ英会話の先生の経験とかそこで感じたことを書きます。

 

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