カガクシャ絵日記

SURVIVAL AIN'T MY LIFESTYLE. (死なないように生きてます)

日本人と英語12:日本に住む日本人の大人は日本語を勉強するか?

さて、日本人で日本の大学を出て仕事に就いてる人は日本語の語彙数が増えるだろうか? 言葉遣い、言い回し、時代に反映する新しい言葉。こういうものは増えると思う。それは日本語の社会で仕事をして人と付き合ったり、新しい趣味を始めたり。また会社で手紙の書き方、親戚付き合い、季節の挨拶などおとなになればそれなりに責任があるしそれなりの日本語を使わなければならい。外人が片言で使う日本語のようでは社会の一員として受け入れられない。

英語もそうで、アメリカ人となってアメリカの社会の一部となって暮らすにはそれなりの英語力がいる。それがアメリカの高等教育を受けた普通にアメリカで生まれ育った人たちのレベルじゃないと一人の男(女でも)として成り立たない。

でもそれは最初に書いたように日本でだんだん大人になって日本語がしっかりしてくるように社会で生きていくうちに出くわす色々な「試練」のうちに身についていくし、それが自然なことだと思う。

もともと僕の英語の勉強としては例の300ぐらいの構文を高校の頃無理やり覚えた時点で終わっていたけど、帰米してからは意識してアメリカの社会のことについて敏感になるようにした。

アメリカはいろんな人が住んでるからこれがアメリカだっていうものは難しいけどないわけじゃない。やっぱりここに生まれてここで育った人たちが国民の主流だからそれなりの共通項はある。何においても分布図を書けば日本のそれと比べてベルカーブの裾野が広いかもしれない。だからと言ってカーブの端っこんいたんじゃちょっとやりにくい。一通りいろいろ知らないといけないと思った。そのためにはTVが一番良いと思う。今はインターネットがあるからそれでもいいけどTVはついてるだけでドンドン情報が入るから楽。

くだらないことほどいい時もある。

例えば、TVといえばコメディーをよく観た。アメリカのコメディーはおかしなところで後ろに笑い声が入る。最初の頃はどこがおかしいのかわからないけど悔しいからTVが笑ってるとこで一緒になって笑ってた。大体コメディーのおかしいのは、普通ならこう反応するだろうというのに意表をついた違うことをしたりするからおかしい。だからアメリカ人がどういう風に「普通に」反応するかがわかってないとどうしておかしいのかわからない。そこが違う文化圏から来た人の辛いところ。まあできたら笑える程度じゃなくて自分でおかしなことを言って周りの人たちを笑わせられるぐらいに成れば外国語の訛りがあったりしても普通に仲間に入れてくれる場合が多い。

 

最近は自分の英語の欠点も気がついてるけど面倒臭いからあるものでごまかしてる。そんなに悪いことじゃないとも思う。日本にいる人だって、いつもあの漢字が書けないとかどうも手紙の挨拶が苦手とかあると思う。だからってダメってなことじゃないしいつかはよくなるだろうと思ってほっといているんじゃないかしら。日本語も英語もそれでいいと思う。

 

一応これで自分と英語の関係の歴史を終わります。でも一つ勘違いしないで欲しいのは僕は自分で感じるほど毎年英語ができるようになってると思う。それは英語の単語数とか言い回しとかの数じゃなくって、生活の中で英語を使ってコミュニケーションをする全体的な力、例えば人との話し方や話せるトピックスなども含めて、が向上してると思うしその努力はしてる。それは仕事でも仕事以外でも社会で生きていくための自分の生活の基礎になるからです。

 

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日本人と英語11: I am a proud American!

独立記念日はアメリカのイギリスからの独立を記念する日です。ハイ。

 

大学院も長いしてそろそろ終わりになるころいろんなことが一度に起きた。グリーンカードの更新、卒業、離婚騒動。

まあそれで色々考えた、当時僕は日本の社会とは音信不通になって10年ぐらい経ってた。日本の総理大臣の名前も知らなかったしバブルがはじけたとは聞いたことがあったけどなんのことだかちっともわからなかった。平成何年かなんてのは計算しようにもいつが平成元年かわからないレベルだった。

それで色々調べてるうちにグリーンカードの更新と市民権取得の試験の値段とあんまり変わらない、しかもあと何ヶ月かで市民権取得の試験の値段が5倍ぐらいになるということ。確か$200ぐらいとかだったけど個人的には当時$200というのは目玉が飛び出るほどの金額だった。

こりゃこのまんまアメリカ人になりなさいという神のお告げとしか言いようがないとしか思えなかった。というか今グリーンカードの更新して後で市民権の試験を受けるのは馬鹿らしい、更新代と$200かかるじゃないか!

 

まあ、晴れてアメリカ人になったにはいいがゆっくりやってた大学院も終わって離婚もしたので、どっちかと言うと裸でアメリカの容赦ない社会にぽいっと放り出されたような感じだった。

 

独立記念日だしちょっと真面目な話もしよう。

アメリカ人になるには2つ方法がある。一つはアメリカに生まれることともう一つは試験に通ったりして法廷で宣誓いをしてアメリカ人になる。そんなわけで法廷に背広着て行った。その時に裁判官が演説したことが面白かった。

アメリカ合衆国ジョージワシントンとか建国に携わる人たちがみんなで自由な民主主義国家を作ろうとして作った国です。それをもとに憲法を作って、法律を作って国が運営されている(奴隷とかネイティヴアメリカンのことはちょっと置いといて)人間が考え上げた、これがいいんじゃないかという自由と民主主義が本当に国としてなり立つかある意味人類の大きな実験をしているんです。そんな国の国民にみんなはなったんです。ってな話だった。

自分は実験科学者だから意味がよくわかった。ワクワクした。

 

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日本人と英語10:大学院生の頃の英語の苦労

日本の大学を卒業して間もなく配偶者ビザでアメリカに移り住んだ。英語力は前にも書いたとおりうわべだけはなんとかアメリカで生きていくぐらいんにはなってた。

大学院でやっていくには足りなかったと思う。

GREの受験塾みたいなのに行ったりした。TOFFLEはうけたけど勉強は全然しなかった。理系の大学院に入るぐらいはとれた。

何って大学院ほど勉強したことはなかった。入って二学期目は授業は2科目で週に3回と4回だったと思う。どっちも教科書がなくっていわゆる科学論文が参考文献。授業はそれに出てくる大事な理論みたいなことをやる。一回で2、3報の論文を読まないといけないそれが全部で週に7回クラスがあるわけだから楽に15報ぐらいこなさないといけない。それで二週間に一度ずつテストがあった。しかも時間が無駄だからとかで授業中にやらないで月曜の夜の8時から10時とかになってた。二科目だったからしまいには毎週月曜の夜はテストだった。

当時はっきり言って論文は読めなかった。気が付いたら同じ行を10分ぐらい繰り返して目で追ってるだけっていうこともあった。到底こなせぬ授業内容と到底こなせぬ授業の量で、その学期は結局2つとも落第点になった。到底歯が立たないと思った。3回目ぐらいの試験の結果どうやってもパスしないとわかった時はうちに帰って声を上げてオイオイ泣いた。悔しくて悲しくてどうしようもなかった。いくらやっても他の学生はアレヨアレヨと先に行くのにこっちは爪の間から血を流して岩を登ってるような気持ちがした。あれには参った。

結局次の年もまた履修した。今度はなんとかパスしたし授業もわかった。結構身についた。論文もだんだん読めるようになってきてた。大学院の終わりころから自分の専門じゃなくても大体どんな論文でも読んで分かるようになりだした。

一番大切だったのは「読んで理解する。」ということがどういうことかやっとわかった。それを知らなかった。普通なら小学校でここにたどりつくんだろうが僕は30過ぎてた。

それから「ただ暗記」だけの勉強法から「理解すること」に重点を置くようになった。

論文とかはパラグラフごとに読むようにした。わざと自分でここのパラグラフには何が書いてあるか問いただして自分の言葉でそれが説明できるか練習したりもした。これは小学校の国語の時間に全然できなかったことだし、その頃そういうことができてた友達はそれは勉強が楽だっただろうなと思った。

それから今まで全然細かいことを気にしないで英語を読んできたことのしっぺがえしが来たなと思った。わからないところは細かく読むこともするようにした。

論文や卒論も書いたけど教授とやりとりしている間に自分が書いた言葉が全然残ってないような論文になった。正直言って卒業した時の英語力は同じレベルの学位で卒業した人たちとは比べ物にならないぐらい低かった。

なんとか続けられたのは実験だけは人並みにできたからだと思う。

話すのは人前で自分の研究発表したりとかはできるようになってきた。

学科で他校の教授を招いて週一回ぐらいなんか講演があった。これはわかるものとわからないものがあった。一番大変だったのは居眠りしないようにすることでどうしても座って20分経つと居眠りしてた。これは今でもそうで最近は無駄な抵抗はしないで一寝入りしてからまた起きて頭をすっきりさせて途中から復活したりしてる。

それでヒアリングのことだけど移住してから3年ぐらいしてお勝手で皿洗いしてる時にテレビのニュースが流れてくるのが聞こえてわかった記憶がある。その辺からテレビも分かり始めてきた。

大学院も長くいたら居心地が良くなってのんびりしてたら追い出されてしまう形になった。ちゃんと卒業したけど、入ったのも出たのも運が良かったって言うしかない。

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日本人と英語9:留学と英語(後編、留学と英語力)

春学期が終わって自分の人生の方向を勝手に決めた。大学院に行って生物化学をおさめるんだって。そのためにはこの留学の成績が鍵になると思った。そして計画的に成績の平均が上がるような履修の仕方をした。大学院進学の推薦文を書いてもらえるような先生も見つけなきゃならなかった(誰に書いてもらったか忘れたけど)。

夏学期は元から決まってた通りキャンパスを離れてホームステイに行った。これは3ヶ月あったので3件ぐらいの家にたらい回しされたと思う。

一軒面白いとこに行った。そこはバプティストというキリスト教のうちでフォスターファミリーをやってた。フォスターファミリーは法律で親元から離された子供を預かって育ててやる制度で、僕もなんとなくその一人みたいになった。そのうちで牛の搾乳を手伝ったり子供達と川に行って一日中泳いだりした。その時フォスターキッズは7歳と5歳の兄弟が居た。お兄さんと妹で2人とも母親に虐待を受けてるらしい。それでもおかあさんが会いに来るとそれがこの世で一番嬉しいみたいにはしゃいでた。5歳の妹は体の成長がおかしくって体が2歳ぐらいの大きさしかない。医者に行っても原因がわからないらしい。大学だけじゃ見れないアメリカを夏の間にたくさん見聞、経験した。

 

さて夏も終わってキャンパスに帰ってくるとやっぱりある程度英語が楽になってたと思う。留学にも辞書は持ってきたけどロングマンの英英でほとんど使わなかった。途中でペーパーバックの英英を買ったと思う。でも以前とおなじで辞書はほとんど引かなかった。

有機化学は教室があんまりにも遠いので途中から行かなくなって一人で教科書をやって勉強した。それでも結果は優に当たる4をもらった。専門教科の大学レベルの教科書は一人で読んで勉強できる程度にはなっていた。

生物化学の講義は相変わらずテープを聴いてた。宿題が出た時に教授がアジアから来た学生は教科書丸写しの答えを書いて出すけどそれは違反ですよと言っていたのを覚えてる。理解したことを英語にするのはだんだんでき始めてきたと思う。友達にお手紙程度のことは何となく書けたと思う。

果たしてヒアリングが一番難しいというけど確かにそうだと思う。1年の留学で会話に関しては不自由はなくなるけど知らない事は聞くのは難しい。

冬になって、留学10ヶ月ぐらい経って映画を見に行った。キャンパスで映画をやってた。トムクルーズがカクテルをぐるぐる回す映画で大した内容じゃなかったけどびっくりするほどわからなかったので仰天したのを覚えてる。悔しくて2回見に行ったような記憶がある。

日本でいうペラペラっていうのはなにを言ってるかはともかくしゃべった時に日本人離れしてるように見えることを言うけど、そう意味ではペラペラにはならなかった。わりと無理なく相手の言ってることを理解して答えることはできる程度だったと思う。寮のルームメイトとは部屋で話はしたけどみんなでどっかに行ったりすると特別に質問をされるまでは話に加われない感じだった。

だいたい1年留学して英語はそれぐらいだったと思う。

英語なんかに比べれば何十倍も留学中に勉強した内容の方が大きかった。大学に帰ってちょっと良くしてくれてた教授に勉強してきたノートやレポートを見せて研究室を変えてくれと頼んだ。そして教授会にかけてもらって変えてくれることになった、今までに例のないことだとかもったいぶったことを言われた。生物化学の研究室で1年やって卒業した。研究は確かステロイド系のホルモンが遺伝子制御に関係するという研究に使うDNAの組み替えをやったと思う。卒論はレポート形式だったけど一応英語で書いた。

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日本人と英語8:留学と英語(前編)

学校からお金をもらって一年間行った留学の目的は2つあった。まあもちろんアメリカの大学に行ってみたいということと、もう一つはそこで生物化学をある程度勉強したかった。

僕が行ってた大学は3年生なると研究室に入れられ授業の合間にそこに行って研究みたいなことを見る、それで4年になると授業はなくって朝から晩まで研究室で卒論研究をするカリキュラムになっていた。僕は3年になった時にちょっと弱気で書いた第二次希望の研究室に決まった。これは分析無機化学みたいなところで興味のあった生物化学とまるっきり違っていた。だから3年の時は馴染めないのとふてくされてたのでほとんど研究室に行かなかった。

それで思った。留学して生物化学を勉強して帰ってきたら研究室を変えてもらおうと。誰もそうしてくれるとは言わなかったけど昔からの癖でかってにそう思い込んで留学に出かけた。

留学先の大学は今はもうあんまり見かけない一年に4学期ある制度で3月の終わりから春学期だったから日本の新年度とちょっとあってた。もちろんアメリカの学校は秋から始まるので通年のコースなどは最終学期になっていた。僕たちは特別4年生という変わった待遇になっていたので割合に途中からでもクラスを取ることができた。

大学に着いてまずはオリエンテーションがあってその中に留学生用の英語のテストがあった。僕は理系の学部生のカテゴリーで英語のテストはパスした。これに引っかかると学内にある英語学校に行かなければならないので時間が無駄になる。

1年間で履修したのは4年生と大学院生に配当されている生物科学ⅠとⅢ、それから生物化学実験ⅠとⅡ。生物化学Ⅱはインフルエンザになってしまい残念ながら履修を2週目で諦めた。有機化学の講義は一年で3クラスあるうちのⅠとⅡを取った。有機化学は実験もひとつとった。有機化学は2つコースがあってどちらも1年3クラスで一通りやるんだけど化学専攻者用と専攻者じゃない人向けがあって僕はズルして楽な方を取った。というのは化学専攻者用のコースはかなり難しいと聞いてたから。体育はラケットボールと空手を取った。大学の成績は4が一番よくって0.5ずつ区切ってある。頑張ったおかげで留学中の成績はいくつだったかは覚えてないけど平均で3.5に満たなかったものの3よりは上だった。

さて英語の話。何はともかく春の生物化学Ⅲの講義はすごかった。講義のは朝8時に始まるし週に4回位あった。それでクラスの半分ぐらいが理科系の大学院生だった。講義は全然わからなかった。ノートは全然取れないし、教科書を読む課題だって到底読めるページ数じゃなかった。なんだかわからにうちに三週間もするともう中間試験があった。もちろん毎回授業の前にクイズなるものがあったりしてあっという間に何をやっていいのかわからない状態になった。中間試験は4段階で2の成績だった。2.5が平均だから焦った。

今からだいぶ昔の話だからそう思って読んで貰えばいい。授業は学校の方で録音してあり図書館に行くとそのカセットテープを借りてカセットデッキが20ぐらい置いてある部屋に行って聞くことができた。ノートが取れないから最初から行けばいいんだけどやっぱりそんなことするのがおっかない。それでも試験の結果を見てからはおっかないなんて言ってられなくなった。意を決して実験のない午後や週末はほとんどそこに行ってテープを何回も巻き戻してはノートを取っていた。

 

50分の授業で普通の学生ならが講義を聞いて理解しながらノートをとる。わからないところは手を上げて質問したりする。僕はただそこにいるだけ。講義はハンドアウトというものがあって多少大事なことや図が書いてある。でも授業中にそこに書き込むのはほとんどできなかった。

そこで図書館に行ってテープを借りて聞く。50分の授業を聞くのに3時間かかった。それをまた1時間ぐらいかかって見直して意味のあるものにする。普通の学生が50分でできることが5時間かかった。年がら年中勉強してた。しょっちゅう昼飯食う時間がなくってアイスクリームで昼めしの代わりなんてしょっちゅうあった。

寮のルームメイトのお母さんからあんたみたいに一生懸命いつも勉強するのがうちの子のルームメイトで良い影響になると喜ばれたほどだった。

実験の方もすごかった。こっちの講義はちょっと楽だった。足を机の上に上げて講義を聴くことを習った。実験パートナーがいて真面目な学生だった。分厚いメガネをかけたひょろひょろした黒人の女の子で勉強がすごくできた。遠心機を待ってる時に鼻歌歌いながら指を鳴らしてリズムをとって楽しそうに体を振ってるのを見てアメリカだなーと思った。宿題なんかも一緒にやったっけどわからないところを一緒に考えたり教えあったりした。日本の大学じゃできるやつはできない振りしてできないやつはやたらおだててなんか聞き出そうとするそんな感じとは大違いだった。

実験そのものはそれなりにできた。でも実験レポートがあった。しかも使ったこともないコンピューターを使ってタイプして出さなきゃいけなかった。これはしんどかった。実はスペルチェックの機能があるなんてことも知らなかったからミススペルのものすごいレポートを出した。その時に教授が鉛筆で全部スペルを直してくれて書いた内容だけで評価してくれた。日本の学校は手書きのレポートで内容なんか全然見てないで「字が汚い」とか言う評価がついてた。レポートの視点はちゃんとしてたのにて丁寧にトンチンカンなこと書いた友達の方が評価されていた。だからとても嬉しかった。こんな学校で勉強がしたい、大学院に行きたいと本気で思った。

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日本人と英語7: 短大、編入学して留学を目指してた頃。

短大に入ってからは津田には行かなくなって片道1時間半かかる通学に一生懸命本やタイムとかを読んでいた。電車に乗ってる間は往復2時間ぐらいだった。駅から歩いてる時はカセットテープに録音した映画の音を聞いていた。

その他イスラエル人の知り合いが何人かできてそういう人たちとつるんでる時間が増えた。当時はイスラエル人が東京に多かった。

実は短大に行った理由に一つ夢があった。

短大は4年生の学部や大学院で博士課程もあるちゃんとした大学システムに入って、そこの学部学生が毎年3人選ばれて150万円奨学金をもらって1年間交換留学に行けるということが学校紹介に書いてあった。

短大に入った僕は短大を卒業して学部編入して留学したいという遥か彼方みたいな夢があった。

 

短大の2年生の時に野菜を作るコースに入った。その時に農場でキュウリを作ったんだが僕の班のキュウリは梅雨の間に腐って溶けてしまった。それから前期はやることがなくなってしまって農場の端っこでタバコを吸ったりしてた。

 

こりゃダメだなと思った。このままいってもダメだ。

科学者になろう!って。

 

それでいきなり科学者を目指した。

編入して科学者になるために一番科学者になれそうな学科の編入試験を受けることにした。試験科目は有機化学100点、無機化学100点と英語200点という振り分けだった。英語が全部で50%なら入れるかもしれないと思った。それで1年間化学の勉強をした。本屋で本を買ってきて勉強した。

実は、僕は高校で全然化学をやってなかった。こたつで朝まで勉強した。でも勉強するというのはどんなことか知らなかったからいくらやっても全然わからなかった。

試験を受けるとなんと受験者は僕だけだった。試験を受けたら有機化学は半分ぐらい行ったかもしれないけど無機化学は半分以下の点しか取れなかったと思う。でも英語はできた。多分100点かそれに近い点だったと思う。

二週間後に面接試験があった。化学が全然ダメだったから絶望してた。学科の教授が5人ぐらい向こうに座ってこっちは一人きりで試験の問題をまた見せられた。「これはどうやってやりますか?」と言われて「わかりません。」と答えた。すると、「君はできなかった問題をうちに帰ってどうやるんだろうと勉強しなかったのか?」とか言われて「はー、あんまりにもできなかったんで諦めてました。」とか言ったと思う。それで「君はもし学科に入って将来何をしたいですか?」と聞かれて「はい、学者になりたいです。」と答えた。全然試験ができなかったのによく言うわと自分でも思った。

あんまりにも絶望してたんでこれからどうなっちゃうんだろうとか考えてもいなかったら、結果的に編入試験に通った。でも短大のコースがあんまりにも科学者とは遠いんで3年次でなく2年次編入だった。嬉しかった。そして思った。留学選考まであと2年間時間がある。

2年生は化学系の講義と実験が朝から夜中までほとんど毎日あった。基礎がないからかなりしんどかったけど3年に進級できることになった。

それで春休みに成田から生まれて初めて飛行機に乗った。イスラエルキブツという共同生活をしているコミュニティーに住み込んで農場で仕事をしながら色々考えようと思っていた。

イスラエルに行って来まーす。」と言って朝の5時頃家を出たものの飛行機の切符はロンドンまでしか持っていなかった。まるっきり無鉄砲というか知らぬが仏みたいな旅だった。それでも死なずにイスラエルまで行って帰ってきた。

自分の判断と自分の英語力だけが頼みの旅だった。英語が上手にできるようになったとは思わなかったけど違う文化と、はるか遠くの地にも人間がすんでるという実感を持って帰ってきた。

3年生の夏に留学の選考試験があった。試験はミシガンテストという英語能力テストと作文と面接だった。テストの後、僕は住み込みで1ヶ月間北海道に麦刈りの仕事に行った。

結果の発表は秋だった。夢にまで見た3人の留学生の一人に選ばれた。

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日本人と英語6:勉強しないでも英語ができるようになる方法に異様に執着してた時期

高校を卒業した後もあんまりにも勉強ができないので浪人みたいななんだかわけのわからないことをして3年ぐらいしてから短期大学に入った。

でもその間に異様に英語に時間を使っていた。どうしてかというと英語ができるようになりたかったけど勉強はしたくなかった。勉強をしないためにはありとあらゆる努力する性格なので英語もそのアプローチだった。

これは僕は自信を持って威張れることなんだけど英語の勉強は例の300の構文だけでそれ以来したことがない。でもなんとなく普通よりできるようになったのはいわゆる勉強をしなかったからだと思う。

英語は勉強をしない方が身につく。なんとなくそう思ってた。だってアメリカの赤ちゃんは参考書も教科書もないで英語を話すじゃないかって。それから見るもの聞くもの全部英語にしてわかんないことは別にそのまんまにしておこうという態度をとった。

まず本をたくさん英語で読むことにした。"Love Story"という70年代の映画の元の小説を見つけた。これは100ページぐらいで内容はTVで何回か映画を見てたから知ってた。ぺらぺらページをめくっても字が離れてるしページもぼそぼその独特のボロい紙でめくり甲斐があった。この本を辞書を使ってわからない単語だけ引いて読んだ。1ヶ月か3ヶ月ぐらいかかったか、わからないところは映画の記憶で取り付くってなんだか読み終わった。辞書も途中から中学用の辞書にしてそこに載ってない単語はわからなくってもいいという非常に低い基準で攻めた。

読み終わって結構わかったんで自分でもびっくりした。これがいいと思った。2、3冊こんな感じで読んすぐ辞書がなくても読めるようになった。それはどうしてかというと単語の和訳がわかるんじゃなくって勘が効くようになる。このころから「英語は勘」というわけのわからないやり方を追求し始めた。

僕が18の頃に池袋の西武デパートにニューヨーク展なるものがあった。そこで古本のペーパーバックスがたくさんディスプレイに使われてた。それが終わってからその古本のペーパーバックスが一冊100円で売られてた。ここぞばっかりに訳も分からず五十冊ぐらい買い込んだ。これを全部読んだというよりページをめくった。わかった本もあったし読み終わってなんだか全然わからないものも半分ぐらいあったと思う。でも英語の勘はかなり冴えた。20才の頃はジョンアービングというアメリカの作家にはまってたこともあった。2、3年間で百冊以上は「読んだ」と思う。

聞くのもFEN Tokyoをいつも聞いてた。夜は寝るときにラジオを付けっ放しで寝てた。

あの頃にTVの2ヶ国語放送というのが始まった。アメリカのドラマとかが英語で観れる。もちろん家にTVは1台だから英語で観たいと言っても「あんたそんなの見てもわからないんだから日本語にしなさい。」とか言われて、「いいじゃねーかよ。」なんてなってた。

二ヶ国語の前はセサミストリートを見た。NHKで毎週日曜に朝一回と同じのをまた夜一回放映してた。それを録音して(録画じゃないよ)朝夕二回見てその録音を一週間聞いて前の日曜に見たシーンを思い出したり。iPhoneでユーチューブがどこでも観れる時代の人たちには信じられないだろうけどね。

まあそんなことをやってた。タイムやニューズウィークも購読して何年も一つも読まないで押し入れの中に山のようになってた。でもしだいに読むようになったけど。レバノン戦争やエイズが初めて話題になった時のタイムを読んだのを覚えてる。

書くことは一番難しいけど日記を英語で書いた。今でも当時書いたものがあるけど読んでも意味がわかる。

何としても一つ決めてたのはわかんなきゃそれでいい、辞書なんか人前で絶対引かない、勉強と思うことは絶対しないっていう気持ちで英語に向かってた。というか性格的にそうしないとやっていけないというのは自分が一番知ってたから。

 

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